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バリ人はどこから来たの?バリ島の古代歴史をガチ解説

バリ島の歴史をガチ解説

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バリ人の祖先&ルーツ

バリ島の人類の痕跡は約2000年前に遡ります。最初の住民は「オラン・バリ・ムラ(Orang Bali Mula)」と呼ばれています。一方、「バリ・アガ(Bali Aga)」と呼ばれる人々は、8世紀以降に東ジャワから移住してきました。

口承によれば、バリ・アガの多くは、14世紀から15世紀にかけて東ジャワのマジャパヒト王国が興隆した時期に渡来したとされています。マジャパヒト王国は1293年から1478年までジャワ島中東部を中心に栄えた、インドネシア最後のヒンドゥー教王国です。当時、王国内でヒンドゥー教離れが進み、信仰を続ける一部の人々がジャワ島からバリ島へ移住しました。多くの歴史研究者は、マジャパヒトの人々が渡来する前の時代を「古代バリ時代(Masa Bali Kuno)」と定義しています。

14世紀にマジャパヒト王国がバリ島を侵略した際、これらの入植者は「アパナガ(Apanaga)」と呼ばれました。彼らは王国の一員としてバリ島に入り、その貢献の対価として家を建てるための土地を与えられました。15世紀には、元マジャパヒト王国の人々は「オラン・バリ・アパナガ(Orang Bali Apanaga)」、別名「オラン・バリ・ダタラン(Orang Bali Dataran)」や「オラン・バリ・マジャパヒト(Orang Bali Majapahit)」として、バリ島で暮らす他の人々から認知されていました。この時代、インドネシアの各島には、それぞれ異なるルーツを持つ人々が住んでいたと考えられています。

バリ島の歴史 〜狩猟と採集の時代〜

バリ島の隣に位置するジャワ島では、約70万年から180万年前に「ホモ・エレクトス(Homo erectus)」と呼ばれる原人が住んでいた証拠が発見されています。wiki – ホモ・エレクトス

バリ島でホモ・エレクトスが居住していた証拠は見つかっていませんが、多くの考古学的遺跡から、数万年前から人類がこの地に住んでいたことが示されています。

旧石器時代の遺物の発見

1961年、キンタマーニ高原のトルニャン村周辺に位置するセンビラン村(Desa Sembiran)で、旧石器時代の手斧やチョッパーアックス(大型で先端が鋭利な石器)などが発見されました。これらの石器の形状から、チバニアンの終わりから後期更新世の初期(約12万6千年前から約1万年前)のものと推定されています。wiki – 更新世

しかし、これらの石器を使用していた人々の存在を直接示す証拠はまだ見つかっていません。更新世時代の人々は、狩猟と採集に依存した生活を送り、特定の場所に定住せず、遊牧的な生活をしていたと考えられます。狩猟グループは小規模な家族単位で構成され、男性は狩猟、女性は食用植物の採集や子育てを担当していました。また、この時代の火の発見は、生存の基盤となりました。

洞窟での生活と道具の使用

更新世以降も、人々の生活スタイルは大きく変化せず、自然環境の中で狩猟と採集を続けていました。石、骨、貝殻などで作られた道具が発見されており、これらが考古学的な証拠となっています。この頃から、バリ島の海辺にある洞窟に定住する試みが始まりました。洞窟といっても奥が深いものではなく、サンゴ礁の上にできたちょっとした洞穴のようなものだったと考えられます。暑さや雨を避けるためのシェルターとして利用されました。

約1万年前、インドネシアには「オーストラロメラネシド(Australomelanesid)」と「モンゴロイド(Mongoloid)」の2つの人種が存在していました。当時、バリ島に住んでいた人々は、これら2つの人種の系譜に属していたと考えられています。

1961年、バリ南部の現ペチャトゥ地域にある「ゴア・セロンディン(Goa Selonding)」という洞窟での発掘調査により、骨製の道具、鹿の角を使った鋭利な突き刺し用の道具、貝殻の破片、無地の陶器などが発見されました。また、ペニダ島の「グア・ゲデ(Gua Gede)」という洞窟でも、人の手で作られた石器や骨、貝殻製の道具が見つかっています。しかし、人骨はまだ発見されておらず、この時代にバリに住んでいた人々の人種を特定することはできていません。

洞窟壁画と埋葬の習慣

人々が自然の洞窟に住み始めた頃、生活に必要な道具を製作するだけでなく、洞窟の壁に日常生活や宗教的な絵を描くことも始めました。バリ島では、人間の体やその一部が描かれた石棺がいくつか見つかっており、この頃には石棺を使った埋葬が行われていたことがわかります。また、ウブド近郊のペジェン村の洞窟では、人間の顔を描いた壁画が発見されています。

これらの発見は、バリ島における古代人類の生活様式や文化を理解する上で重要な手がかりとなっています。しかし、まだ多くの謎が残されており、さらなる研究が期待されています。

バリ島の歴史 〜農耕時代〜

狩猟と採集の時代を経て、人類は重要な時代である「農耕時代」に入ります。森は農地を開墾するために切り倒され、人間に農作物をもたらしました。農耕時代の定住生活は、人々の集団が「村」として簡素な家々を作るところから始まりました。この頃から「オーストラロメラネシド」や「モンゴル人」など、異なる人種、異なる集団間での交わりが始まりました。

農耕を支える道具の発展

農耕を支える道具を作る技術も発達しました。石から作ったつるはしや角オノの刃先はより鋭くなりました。それ以外にも、黒曜石を使った道具、狩猟のための矢尻、陶磁器、木のトンカチ、装飾品などが生まれました。特にバリ島では「Belincung」と呼ばれる石のつるはしが、半貴石タイプの石から作られました。

オーストロネシア語族の広がりと影響

これらの道具の出現は、農耕と牧畜の技術を持っていたオーストロネシア語族(南モンゴロイド)と関連していると考えられます。

一説によれば、角斧文化は中国の雲南地域から生まれ、ベトナム北部に伝わり、船造りの技術が発展しました。オーストロネシア語族の人々は、紀元前2000年頃に船で西マレーシアへ渡り、そこからスマトラ島、ジャワ島、バリ島へと東進し、一部はカリマンタン島に移住したとされています。

別の説では、紀元前2500年頃に中国南部のオーストロネシア語族(南モンゴロイド)が台湾を経てフィリピンに広がり、そこからインドネシアやマレーシアの島々、スラウェシ島、カリマンタン島、バリ島、ジャワ島、スマトラ島、ベトナム南部、マレーシアなどに広がったとされています。

2つの説は、インドネシアに渡来した人々のルーツが中国であり、オーストロネシア語族(南モンゴロイド)である点で一致しています。

農作物の栽培と家畜の飼育

根菜類や果物の栽培はまだ体系化されていませんでしたが、行われていました。主食はタロイモやパンノキで、中国や東南アジアでは米や雑穀が栽培されていました。それ以外に、中国と東南アジアではお米と雑穀が栽培されました。特に活火山の近くにある栄養豊かな土地で米づくりが進みました。鶏、水牛、犬、豚などの動物が家畜として飼育され、食用としてだけでなく宗教行事の生贄としても使われました。この使われていた言葉は、マレー・ポリネシア語派、すなわち、オーストロネシア語族でした。

社会構造と文化の形成

オーストロネシア語族の人々が新しく入植した土地では、先住民族の人々と混じり合いが起こりました。彼らはその土地の一番良いエリアを占有し、彼らのテリトリーとしました。そして、住民は共働の中で同じルールに従うというシステムが形成されました。Gotong-royong(助け合い)の精神が様々な活動の中で義務になりました。男女における分業もすでにありました。

各地域において、地位が高いのは、そのコミュニティの創始者や、最初の入植者の子孫(vanua)でした。各集団においては、人々から尊敬される人物がリーダーになりました。また、親を敬うという伝統は最も大切な義務となり、のちに様々な形式を持つ宗教的伝統へと発展しました。この崇拝は後に宗教的概念に発展し、Megalitik(メガリティック 日本語: 巨石文化)と呼ばれる巨石を使った建造物に現れました。

巨石文化の象徴とその背景

巨石建造物の背景には、先祖崇拝と、生者の繁栄と、死者への完全さへの憧れがあります。バリ島で見られる巨石モニュメントはPelinggihと呼ばれる岩層と石棺で構成されています。

1960年のSoejonoの研究によると、バリ島各地で発見された石棺は、人々が金属鋳造が可能になった時代に発展しました。石棺の大部分は比較的柔らかい「礫岩(れきがん)」で作られており、中の骨はほとんどが損傷しており、青銅や鉄の製品やビーズの形をした副葬品もありました。石棺には、人間の顔、またがった姿勢の人間、女性器の形をした模様が刻まれています。また、彫刻の膨らんだ部分は舌を出した人間の頭の形をしています。そして石棺が置かれている位置は常にカジャ(Kaja)、つまり山の方角に向いています。

特にバリ・アガの村々では、巨石文化の建造物として、メンヒル(石碑)、石の祠(ゲゲル地区)、石の祭壇、石段のある道、階段状に組み上げられたピラミッド型の石造り(セルルング地区やセンビラン地区)、および石の階段などが見られます。巨石社会では水牛には神聖な価値があり、水牛を所有しているかどうかがその人の社会的地位を決定しました。

青銅器時代

農耕が定着した時代、人々は村を築き、農業や畜産を発展させました。この時期には、木造住宅の建設、陶器や金属器の製作、宝飾品の加工といった専門的な技能をもつ「ウンダギ(undagi)」と呼ばれる職能集団が誕生したとされます(Purbonergoro & Soejono, 1984)。彼らは社会の中で重要な役割を担い、技術の伝承者として共同体の発展を支えました。

紀元前3000〜2000年頃には東南アジアで金属利用が始まり、インドネシアでも紀元前数世紀には青銅や鉄が登場します。バリ島で発見された青銅器は、北ベトナムのドンソン文化や南ベトナムのサ・フイン文化と共通点が多く、広域的な文化交流を物語っています。遺物の種類には、ネカラ(銅鼓)、モコ(小型銅鼓)、武器、装身具、祭祀用具などが含まれます。

バリ島で発見された青銅器

考古学調査によって、バリ島の各地で青銅器が発見されています。代表的な遺跡は以下の通りです。

  • ギリマヌク
  • ペジェン(ギャニャール)
  • マヌアバ
  • ペグヤンガン
  • ベビトラ(南部バリ)

とりわけ有名なのは、ペジェンのプナタラン・サシ寺院に伝わる巨大なネカラで、地元では「月が地上に落ちたもの」と呼ばれ、聖なる遺宝として崇拝されています。

陶器製造と埋葬習慣

金属器と並んで、陶器もまた重要な役割を果たしました。ギリマヌク村やチェキック村の発掘では、生活用品としての陶器だけでなく、埋葬容器として用いられた壺も発見されています。副葬品としては、陶器のほかに金属製の槍先、石やガラスのビーズ、青銅や鉄の装身具などが供えられました。

ギリマヌク遺跡では、人骨の腕にガラス製ブレスレットが巻かれた状態で発見されており、ビーズや装飾品が「交換媒体」や「社会的地位の象徴」として機能していたことがわかります。

埋葬方法も多様で、壺棺や石棺、舟形木棺などが用いられました。遺体を一時的に仮埋葬し、後に改めて儀式を行って洗浄・再埋葬する習慣もあり、地位の高い人々の埋葬には家禽や犬、武器や装飾品が副葬されました。

巨石文化と石棺埋葬

同時期、内陸部では巨石文化の影響を色濃く受けた埋葬習慣が見られます。テンガナン・ペグリンシンガン、トゥルニャン、バトゥカアンなどの村々では、石棺(サルコファガス)や礼拝施設の遺構が残っており、指導者や尊敬された人物が手厚く葬られたことを示しています。特にテンガナン・ペグリンシンガン村には、階段状の集落構造や石畳の道、男根形の巨石を祀るシャーマン寺院など、古代の巨石信仰の伝統が今も息づいています。

インドとの交流と金属文化の広がり

こうした出土品や葬送習慣は、バリ島がすでに広域的な交易圏に組み込まれていたことを示します。紀元後1〜2世紀にはインドとの交流が始まり、陶器片やビーズ、金箔片などがセンビランやパクン遺跡から発見されています。

インドネシアの金属文化は、マレーシア半島を経由して伝来したドンソン文化と深く関わっており、その担い手はオーストロネシア人であったと考えられています(Sukmono, 1973)。すなわち、青銅器時代の到来は、海を越えた人々の移動と文化交流の証であり、今日のバリ文化の基盤をなす大きな要素となったのです。

古代バリ時代(Wong Aga の到来)

先史時代以来、インドネシア列島はアジア大陸や東南アジア地域における交易の通路であり、物資の往来の要所でした。この関係は、インドとの接触が古くからあったことを示しています。

当時、交易や交換の対象となった品物には、貴金属、宝石、織物、ガラス製品、医薬品や香水の原料、香辛料、樟脳(しょうのう)、沈香(じんこう)、白檀(びゃくだん)などが含まれていました。

インドからの影響

バリとインドとの関係を示す初期の考古学的痕跡としては、ルーレット文様のついたインド陶器の破片、アリカメンドゥ陶器の縁飾り、カロシュティー文字あるいはブラーフミー文字の刻まれた陶器、金箔の皿、ビーズなどが、センビラン、パチュン、ギリマヌク、パンクンリプの遺跡から出土しています。

これらの発見は、約2000年前にバリとインドの間に関係があったことを示しています(Ardika ら, 2018:50-52)。

インドからの商人の来訪は、宗教や文化に大きな影響を及ぼしました。インドの文化や宗教は、インドネシアに到来した後、支配階層に強い影響を与えました(Poesponegoro, 1984:19-25)。インド文化の導入によって、ヒンドゥー教的要素や仏教的要素がバリの土着文化の中に浸透しました。

ヒンドゥー教の到来とともに、シヴァやヴィシュヌといった神々が崇拝され、仏教の影響を受けて釈迦(ブッダ)もまた宗教体系の中に取り入れられました。インド文化の到来は、東南アジアの在地信仰と混じり合い、結果としてヒンドゥー教的世界観がバリの精神文化に定着していきました。

祖霊信仰や在地の神々への崇拝が失われたわけではなく、それらはヒンドゥーの神々と融合し「土着の神はヒンドゥーの神の姿をとって現れる」という形で共存しました。こうして、ヒンドゥー文化とバリの在来信仰が相互に作用しあいながら、新しい宗教世界観が形づくられていったのです。

特定の地域では、ヒンドゥー教の教えが受け入れられるとともに、サンスクリット語が儀礼や碑文に用いられるようになり、王権や社会制度に深い影響を及ぼしました(Ricklefs ら, 2013:30-31)。

さらに、インド文化が到来する以前から存在していたオーストロネシア的要素も残り続け、両者が折り重なる形で「古代バリ文化(Bali Kuno)」が形成されました(Ardika ら, 2018:54)。

すでに述べたように、バリにおける祖霊崇拝は強く、人々の生活に大きな影響を与えていました。こうした在地信仰の上に、ヒンドゥー教や仏教が加わり、複合的な信仰体系が成立しました。

この状況について、Poesponegoro(1984:281-282)は、中国史書『唐書』に記された記録を引きながら説明しています。それによれば、唐代の史料には「ホーリン(Ho-ling、ジャワ島中部のセマラン付近)」と並んで「ポーリ(Po-li、バリ)」の名が記されています。その後、陳(Chen-la、カンボジア)の支配下に置かれたとされ、さらに「ドゥヴァパタ(Dva-pa-tan)」の地名が登場しますが、これはおそらく現在のバリ島に比定されるものです。

また、『諸蕃志(Chu-fan-chi)』には「スチン(Su-ci)」の名で記され、『遼史』には「マ・リ(Ma-li)」と記され、『元史』には「ポン・イチ(P’eng-li)」として登場しています。これらはいずれもバリ島を指す名称であり、古代からすでに中国の記録に登場していたことを示しています。

さらに、プジェンで発見された粘土板の記録は、仏教的なサンスクリット語で書かれた経文の一部を伝えており、これもまた当時の宗教的交流の存在を裏付けています(Poesponegoro, 1984:282-284)。この記録には「犠牲の供物」を意味する「Wali」という語が刻まれており、バリにおける宗教儀礼の古層を示す貴重な資料とされています。

他にも、804〜836年や882〜895年に刻まれた碑文が見つかっており、これらはスカワン(Sukawana A1)、ベデュル A1、トリュナン B、プラ・ケヘン(Bangli)、プラ・デサ(Gelogor)、アンガサリなどから発見されています。碑文は、祭祀や社会制度、王権の正統性を示すものとして用いられました。

これらの碑文や考古学的証拠により、当時のバリ社会では王権の支配とともにヒンドゥー的な社会制度が確立していたことが明らかになっています。

聖職者 リシ・マルカンデヤ

こうした制度の背後には、ジャワやインドから渡来した聖職者や修行者たちの活動が大きな役割を果たしていました。彼らは新しい信仰体系をもたらすだけでなく、在来の信仰と結びつけることで、人々の精神的支柱となっていきました。

その代表的人物が Rsi Markandeya(リシ・マルカンデヤ) です。伝統的に、リシ(Rsi) とは師から受け継いだ名(Parampara)を与えられる存在であり、その清浄な修行と知恵によって尊敬されました。Rsi Markandeya は「聖なる修行者マルカンデヤ(Sang Yogi Markandeya)」と称され、のちに「生命を維持する力を広める者 Bhataara Giri Rawang」とも呼ばれるようになりました(Wikarman, 2010:14-15; Soebandi, 2018:11)。

バリにおけるヒンドゥー教布教の始まりは、ジャワからの移住者が最初に渡来した9世紀初頭にさかのぼります。その中でも重要な人物が Rsi Markandeya でした。伝承によれば、彼は Sang Hyang Widi Wasa(唯一神)の啓示を受け、弟子たちを率いて布教を始めたとされます。彼は最初にジャワ東部、現在のブミ・ハルジョ村(バニュワンギ県グレンモール郡、ラウン山の麓)にアーシュラムを開きました。

やがて彼は大勢の弟子を伴ってバリへ渡る決意をし、約8,000人の Wong Aga(ラウン山周辺に住む人々)を率いてバリへ入ったと伝えられています。最初にバリへ到着したとき、彼はギャニャール県のベサキ(Besakih)地域に拠点を置き、信者とともに新しい村を築き始めました。しかし最初の試みは失敗に終わります。多くの弟子たちが病に倒れ、必要な儀礼を果たせずに命を落としたからです。その結果、彼らはジャワに戻らざるを得ませんでした。

その後、Rsi Markandeya は再び啓示を受け、より多くの弟子(約4,000人)を率いて二度目の渡航を試みます。今度は事前に十分な準備を行い、儀式を執り行うことで失敗を避けようとしました。バリに到着した彼らは、アグン山(Gunung Agung)の斜面において、Sang Hyang Widi Wasa(唯一神)への奉献儀式を行います。この儀式は パンチャダトゥ(Pancadatu) と呼ばれ、金・銀・銅・鉄・鉛の五種類の金属を地中に埋め、土地を鎮め、神々に捧げるものでした。儀式は mirahadi(聖職者)によって導かれ、さらに Bhuta Yadnya の祭儀が加えられました。

この儀式をもって、現在の「ベサキ寺院(Pura Besakih)」の礎が築かれたとされています。以降、この地は「バスキウティ山(Basuki)」あるいは「バスキ寺院(Besakih)」と呼ばれるようになりました。

儀式を終えた Rsi Markandeya はさらに西方へと進み、ギャニャール県のタロ村(Taro)に至りました。そこは肥沃な土地であり、彼はここを弟子たちの拠点と定めました。伝承によれば、ラウン山で修行を行っていた彼は、後にこの地で瞑想し、プラ・プチャック・パヨガン(Pura Pucak Payogan)を建立しました。彼はここで多くの信者を導き、修行を続けました。

こうして Rsi Markandeya は、弟子たちをバリ島各地に派遣し、村ごとに寺院を建立させ、信仰と社会秩序の基盤を築いていきました。その活動を通じて、バリ島の人々の生活にヒンドゥー教的な世界観が浸透し、共同体の制度や慣習に深く根づいていきました。

彼の子孫や弟子の系譜は後に「プロヒタ(purohita=司祭)」として王や支配者を補佐し、バリ社会における宗教的・政治的な正統性を支える役割を果たしました。その中でも Bujangga Waisnawa の系統はとくに重要で、バリの先住共同体に深い影響を残したとされています。

バリ・アガ=古来からのバリ人

このようにして、山岳地帯に暮らす人々の中には「Bali Aga(バリ・アガ=古来からのバリ人)」と呼ばれる共同体が形成されました。彼らは独自の伝統や慣習を守り続けながらも、Rsi Markandeya の教えを受け入れ、自らの信仰体系に取り込みました。現在でも、トゥルニャンやテンガナンなどの村では、その文化の名残を確認することができます。

一方、平地に住む人々は「Bali Mula(バリ・ムラ=原初のバリ人)」と呼ばれ、後世のバリ社会の主流を担っていきました。両者は完全に分かれていたわけではなく、交流と融合を繰り返しながら、今日のバリ社会の多様性を形づくっていったのです。

もっとも、Rsi Markandeya の物語は、歴史的事実そのものというよりも「伝承」として人々の間に受け継がれてきたものです。しかし、この伝承は単なる神話ではなく、バリ社会における信仰や制度を正当化し、人々の結束を強める大きな役割を果たしました。

民俗学者 Bascom(1965) によれば、伝承には次のような主要な機能があるとされています。

  1. 教育的機能:次の世代に社会の価値観や規範を教える。
  2. 正統化機能:社会制度や権力の正当性を裏づける。
  3. 社会統制機能:共同体の秩序を守るための規範を強化する。
  4. 娯楽的機能:物語として人々に楽しみを与え、文化的共感を育む。

この観点からすれば、Rsi Markandeya の伝説は、単にバリ・ヒンドゥー教の始まりを説明するだけでなく、バリ社会の宗教的世界観と共同体の在り方を支える精神的な基盤 として機能してきたといえるでしょう。

そのため、この物語は今日に至るまで、儀礼や寺院の成立由来を語る際に繰り返し参照され、バリ人のアイデンティティの一部として生き続けているのです。

参考文献:

「Budaya dan Masyarakat Bali Aga」Purwadi Soeriadiredja, dkk.